SHUYU
MOUNTAIN RANGE

修猷山脈
昭和58年卒
佐伯 智洋

ほとばしる青春~1980年 修猷ラグビーの風景

1980年(昭和55年)4月、修猷館に入学した。部室前で2年生のK先輩に呼び止められ『おいお前ちょっとここに名前書いちゃらんや。2年生1人に付き新入生2人書かんといかんったい。名前書いても全然入部せんでいいけん』、怖い先輩に言われるがままに名前を書いたら次の日の昼休みに守田先生がマジックで自分の名前を書いたジャージを持って廊下に立っていた。

新入生は22名ほど、うち20人が初心者、結果的には3年の最後まで続けたのは半分以下の10名だけだった。グランドに行くと先生2人と沢山の錚々たる昔鳴らした超OBが待っていた。初日からがんがん練習させられた。全体練習がひと段落すると、怪我をした3年生が2人(首コルセットをしたセンターのO先輩、腕を三角巾で吊ったフランカーのO先輩)が1年集合!と声をかけ更に鍛えられた。まさに前門の虎、後門の狼、グランドのどこを向いてもえずかった。フランカーO先輩が練習終了後に更に『はい、1年はまだ終わっとらんぞ』 『全員でグランド5周走、後ろから数えて10人はもう5周ぞ、はよ行け!』と言われた。これは最後の10人に入ると大変とばかり、4週目まで体力を温存し最後の5周目で後ろを見ながらスパート、何とか上位でゴールした。ほっとしていたらO先輩が寄ってきて『きしゃん、なんで1週目から全力で走らんとや、俺が根性叩き直してやる』と二本木の辺りでしばかれた。ゴールした同期の1年生がみな見ていた。『なんで走れん奴の分も引張って俺が走ってやるっていう気持ちにならんとや、お前みたいな奴はラグビー部にいらん』と言われ入部早々ダメ出しを食らった。中学時代、テニス部主将としてどう相手を揺さぶり、出し抜いてポイントを取るかばかり考えていた自分に取ってチームワークとは何かを叩きこまれた瞬間だった。
練習がようやく終わり同期1年生で唾でボールを磨いた後で一緒に瓶のジュースを飲んだ。同期の皆が笑いながら『サエキやめるなよ、明日も一緒に頑張ろうぜ』と言ってくれた。嬉しかった。
次の日、5周走を最初から全力で走りO先輩に自分ももう5周一緒に走らせてください!と言った。O先輩は顔をくしゃくしゃにして『そうたい、その気持ちたい、お前やめんで続けれ』と言ってくれた。むき出しの愛情で自分を鍛えて頂いたO先輩には今でも本当に感謝している。

秋の花園予選が近づくに連れ練習は激しさを増し、グランドにはピリピリした空気が漂った。それもそのはず、その年の運動会にラグビー部員が大量に幹部を務めたことで守田先生がご立腹だった。2兎を追うと両方中途半端になる、ラグビー部はあくまで全国大会出場がターゲット、運動会の幹部になるとは許さん、と。3年生が直談判で先生の自宅に説得に行くと門前払いで受け入れなかったと聞いた。3年生は『よかよか、どっちにしても運動会も全国大会も両方全力でやるしかなかろうもん』、とそのままの状態を続けた。守田先生はグランドで3年生と口を利かなくなり、その代わり1年生練習に力を入れた。我々1年生は何が何だか解らないまま守田先生の特訓を毎日受けていた。
そういう事情もあり運動会終了後の全国大会に向けての練習は激烈を極めた。ベスト4に進んだ修猷は準決勝で前年に花園に初出場し当時最強FWと言われた筑紫丘を激闘の末2点差で破り決勝に進出。当時の3年生は多士済々の侍軍団だったが中でも湯布院の夏合宿で同部屋であったセンターのO先輩はすごかった。プレーも迫力あったが練習中にグランドで全体に指示を出す貫禄は完全に高校生離れしていた。決勝までの1週間の練習は更に激しく、O先輩が突然 『決勝の試合はキャプテン(SO)のタックルにかかっとう』と先生を差し置いて練習を仕切りグリッド内でのキャプテンのタックル練になった。『1vs1で10人ちゃんと止めるまで終わらんぞ!』と仁王立ち。ただ10人連続で止めることは難しく、エンドレス練習になりかけた時、SHのB先輩が『おれら仲間やろ、キャプテンが抜かれたらみんなで止めようぜ!』と泣きながら叫んだ。練習はようやく終わった。

決勝は久方ぶりの福高との伝統校対決ということでマスコミが大挙して最終練習の両校グランドに押しかけた。TV局の前日インタビュー取材が終わった後に全員で円陣を組んだ。するとこれまで円陣では一言も何も言わなかった守田先生が『お前たちはようやった。今まで色々あったけど明日は勝って私を花園に連れていって下さい』と頭を下げた。全員ぐっと胸にこみ上げるものがあった。
翌日の試合は土曜日午後ということもあり、修猷、福高双方の全校生徒が応援に駆け付け平和台競技場のバックスタンドは超満員となった。両校応援合戦の異様な雰囲気の中、開始直後に修猷のFWがラッシュ、フランカーのN先輩(ブロック長を務め守田先生と緊張感のある関係だった)が先制トライを決めた。競技場全体が揺れ修猷サイドのボルテージは最高潮。自分もボ―ルボーイをしながら眼前でトライを見て全身に鳥肌が立った。詳しい試合内容は省略するが結果的には後半に逆転され花園行きは惜しくも叶わなかった。ただ前日の最終練習からこの先制トライまでの24時間の数々のシーンは当時15歳の少年には人生最大の刺激となり以後ラグビーの虜(とりこ)になった。
『ラグビーは少年をいち早く大人にし、大人に永遠に少年の魂を抱かせる』とまさにこの当時にフランス代表主将で活躍したJPリーブは世界に通じる名言を残した。

今般100周年を機に45年前の修猷ラグビーのほとばしる青春の風景を昭和時代のほろ苦い想い出と共に書き留めておきたいと思う。

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