SHUYU
MOUNTAIN RANGE

修猷山脈
昭和46年卒
尾中 澄夫

部員6人の挑戦記

部員6人の挑戦記

入学したての頃は13人が入部したものの卒業まで在籍したものは、岩崎君、松尾君、松本君、そして小生尾中の4名だった。

岩崎君は、「サッカーと似たような競技だと思い入部した。私の当時のラグビーの認識はその程度だった。」と語っている。3年時9番スクラムハーフ。
松尾君は中学時代柔道部で、ラグビー始めたきっかけは修猷館OBのいとこがラグビーファンで修猷館に入ったらラグビーせれと言われたことである。3年時2番フッカー。松尾君の思い出は、「最後の筑紫丘戦で相手陣25m付近のラインアウトでキャッチした田中君からピールオフを受けフォワード裏にみごとなショートパントを上げたことです。その後どうなったかは覚えておらんけど生涯最初で最後のパントでした。69歳までラグビーの試合に出たけどスクラムだけは数限りなく組んできました。しかし、ボール持って20m 以上走ったこともなくボールをキックしたのもさっきのを含めて三回,トライの記憶も三回だけというラグビー人生でした。続けられたのは最初に訳もわからんで出た一年の春の公式戦でトライを上げたことでしょう。スパイク履いてグランドに立てればといまだに思っています。そして後輩や現役の若い連中との交流が至上の喜びとなっています。」と語っている。
松本君は中学時代陸上部で、1年先輩の原田先輩からの誘いで入部。3年時12番センター。
小生は、中学時代陸上部だったが、高校からスタートすることの多いスポーツを選んだ。3年時7番フランカー。

せっかく入部した1年生も、夏合宿前にやめるものが出て、夏に転校生として入部した経験者も、1年間在籍したのち退部。そこで、せっかく入部した貴重な部員を辞めさせないために、校内はもとより自宅にまで押しかけ、辞めないよう説得、懇願したこともあった。後日談となるが、辞めようとする方は、できるだけ校内でも目を合わせないよう、残った部員と接触しないよう過ごすのが気まずかったと聞かされた。

入学後すぐに、福岡工業との試合があり、新入生も何人かスタメンで試合に出た。この時は、試合に出られるという喜びはあったがルールもよくわかっていない状態での参加。今考えると、部員不足が、入学したてから始まっていたということである。

また2年時、後輩が入ってきたが、それでも部員は足りないことが多く、公式戦は、練習試合なしのぶっつけ本番だった。そんな恒常的な部員不足から、本来なら、学校の休日日は練習試合をして役割や動きを確かめることが重要なのだが3年間で行った練習試合は3年時香椎高校のグランドでの練習試合のみだった。
練習試合を組んでくださったのは、そんな弱小チームでも諦めず指導してくれた渕本先生だった。
後に、中原君は、こう語っている。「渕本先生には、何時もジャージ姿で日焼けした顔での熱血指導、たとえばセービングやフランカーのディフェンス等、が記憶に強くあります。」

3年になってから、田中君と中原君が入部。
田中君は3年時8番ナンバーエイト。上背がありタフな人材。ひとつ上の武藤先輩が中学の後輩、旧知の田中君をリクルーティングした。
中原君は3年時6番フランカー。中学時代陸上部、駿足でこころ強い人材。
これでS46卒の正式部員が6名揃った。
しかし、相変わらず部員不足は続き、なんとか15人揃えるために、陸上部、ヨット部、柔道部などに臨時に出場してもらうよう頼み込むことが続いた。また、強引な部員勧誘もあって、関係者には迷惑をかけたこともあった。

思い出すと、春の公式戦1回戦、相手は県の優勝チーム、当時花園常連校の福岡高校。試合はキックオフからいくらもたたない時間帯で、ハーフライン付近の左サイド寄りマイボールスクラムから、スクラムハーフの岩崎君が相手ゴールラインに向かってパント、バウンドして戻って来るボール目掛けてフランカーの小生が走り込み、さらにバウンドして戻ってきたボールを拾って飛び込みトライ。強豪福高に先制点を挙げたのだった。当時はトライもペナルティゴールもドロップゴールもすべて3点で、コンバージョンキックは成功するとさらに2点加点は今と変わらないが、当時はコンバートと呼ばれていた。コンバートは残念ながら決まらなかったが、それでも、圧倒的劣勢の予想を裏切り、3点の先制点を奪ったのだった。
この試合の結果は3ー25で敗退したものの、決してあきらめない全部員の気迫を示した一戦として記憶に残る試合だった。

今の部員は、自分たちの頃に比べ経験者も豊富で、ラグビー人気もあり未経験者も多く入部して来ている。
また、大会では常に上位校に位置し、さらに日本代表に選出される人材も輩出して、盛り上がっている。
しかし、50年前には部員不足で他の部からの助っ人に助けられ、正式部員がその助っ人に感謝しながら、公式戦に出場できることにホッとする状態であったことも記録に残したい。
そして、そんな状況だったにも拘らずS46卒の6名は、3名が福岡在住、残りは首都圏に在住している中でも、首都圏組が帰福した際には、必ず当時の思い出をさかなに酒を酌み交わしながら親交を深め古希を超えた今でもS46年卒業組の絆は深まっている。