SHUYU
MOUNTAIN RANGE

修猷山脈
昭和49年卒
田代 博之

低迷の時代を乗り越えて

低迷の時代を乗り越えて

今では部員数60名程の大所帯となった修猷館ラグビー部だが私が入部した1971年4月当初は3年生4人、2年生1人の計5人の上級生しかいなかった。当時行われていた5月の7人制大会にも臨時の助っ人2人を加えてやっとチームが編成でき何とか出場できたという状況だった。春の間に1年生10数名が入部したが、九州大会予選は棄権という部の方針で、われわれ1年生部員は日々基礎練習のパス、キック、タックル、セービング、ドリブルとランニングパスの往復に明け暮れていた。

きつい夏合宿を乗り越え少しづつチームとしての型ができてきた。9月に初めての練習試合が城南高校と組まれたが50点以上の点を取られ零敗した。15人のうち10人が1年生というチームではこれが実力かという状態であった。花園予選は1回戦で敗退し、たった1人の2年生の平野さんが主将となり新チームが発足したが、我々が2年生になるまではずっと基礎練習が続く毎日だった。

1972年の春には体格の大きな新1年生を混じえた新入部員が10人程入部し何とかゲーム形式の練習もできるようになった。当時大学生だった若手OBも毎日指導にあたってくれて、少しづつではあるがチーム力がついてきているのが実感できた。過酷な夏の練習で鍛われ秋口にはチームとしての形ができて秋の花園予選では1回戦で勝利を得ることができたがそこまででシーズンを終えた。

新チームは1、2年生それぞれ10数名づつの人数となり、当時としてはやっとチーム編成に困らなくていい状態になった。OBも来年こそはかつての強豪校の栄光を取り戻さんと意気込み、連日練習をつけに来てくれるようになった。何よりも大きかったのは慶応大学を卒業して岩田屋に勤務してあった安部直幸先輩が監督として就任された事だった。安部監督はラグビーの理論、技術だけではなく戦術や試合に臨むラガーマンとしての心の持ち様まで丁寧に指導して下さり、それは今でも私達の生きる姿勢の拠り所となっている。

新チーム初の2月の新人戦では県準決勝まで勝ち進み、我々が3年生となった5月の九州大会予選では、当時福岡高校と並び花園常連だった福岡工業(当時は福岡県は2校花園に出場していた)に僅差で敗れた。鍛えに鍛えた夏が過ぎ、我々は復活した修猷ラグビー部との自負を背負って花園予選前の他校との練習試合を全勝でこなして秋の花園県予選に臨んだ。ここでも順調に勝ち上がり、県大会決勝で福岡高校と対戦することになった。当時の新聞には24年振りの修猷-福高決勝戦と取り上げられ、我々の士気も大いに上がった。しかし当時の福高は後にオールジャパンとなる名選手を何人も輩出しており、実力差は如何ともし難く敗れて涙を飲んだ。

しかし後に続く後輩達は着実に力をつけ、4年後の1978年には県代表として花園出場を勝ちとってくれた。その後の時代は東福岡や筑紫高校の台頭はあるものの、我が修猷館は毎年強豪校として活躍が続いていることは嬉しい限りである。これからの100年も更に奮闘を続けて欲しいものである。