SHUYU
MOUNTAIN RANGE

修猷山脈
昭和50年卒
亀岡 友樹

清家 一雄君のこと

昭和50年3月、前年11月まで花園を目指しプレーしたが福岡県大会準決勝で力尽きた僕ら3年生亀岡、伊佐、長沢、村田、西依、酒井の6人は、受験にも揃って討ち死し浪人決定で卒業を迎えた。もう一人本来同期の清家一雄は、まだ小倉の労災病院に入院中だった。

話は2年前、昭和48年7月の夏合宿に遡る。
3日目、九州電力とOBの合同チームとゲームを行った。その最中経験の浅い控えフッカー清家はスクラムが落ち頸椎損傷、四肢が不自由な重度の身体障害となり入院加療していた。
清家は福岡県を相手として損害賠償訴訟を起こした。前後の学年関係者は夫々の意見、夫々の立場からこの訴訟に関係した。
私は、ラグビーをセンタープレーをいろはから教わった恩師淵本先生を前に、複雑な思いであったが法廷で「力の差が大きすぎる高校生と社会人の一流チームのゲームを組んだ事自体が無謀で管理責任上の問題である。」と陳述した。裁判は上告合戦となったが、最終的に清家側の主張の多くが認められた。(詳細を知りたければネットで)

私が言いたいのはそんな事ではない。その後の清家の生き方だ。
彼は2年後四肢不自由のまま電動車椅子と介添え人の補助で修猷館高校に復学し、その後九州大学法学部に入学苦労の末、無事卒業した。その後の彼の活躍は凄い。ある財団の支援を受けサンフランシスコのUCLAに留学。(当時私が駐在していたヒューストンにも遊びに来てくれてNASAのロケットの前や女房とテキサス州旗を掲げて笑っている写真を部屋に貼って喜んで居た。)ネット上にも彼の活動歴や写真が溢れている、その積極性と行動力は驚くばかりだ。
やがて彼は介護サポーターの人材派遣会社を興し、車椅子の社長として200人ほどを使う会社に発展させた。
今も私が偶に帰福する際には清家や同期の皆が西新界隈の飲み屋に集まり一杯やってくれる。清家は相変わらずしょうも無い冗談を言い美人秘書軍団清家ガールズを率いて現れる。

10年程前、私は長年の暴飲・暴食・喫煙が祟り脳梗塞を発症し3か月間入院した。今も右目は視力を失い、左半身に麻痺が残り杖を頼りにヒョコヒョコ歩いている。
なーに心配はご無用、私の不自由なんて清家に比べたら「屁みたいなもんだ。」

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