SHUYU
MOUNTAIN RANGE


2つの財産
我々51年卒キャプテンの後藤恭徳君は、西南中学の同級生で、中学では一緒に演劇部を立ち上げ文化祭で戦争孤児の劇を演じたりしました。それが、高校に入学するとラグビー部に入ると言い出した。どういう考えであったかは未だにわかりません。同じく中学の同級生だった田中博積君、養父重紀(やぶ)君もラグビー部に入ると言う。ラグビーについて何の知識もなく、部活の選択肢にも入れていなかった私も、彼らに引きずられるように入部してしまいました。
1、2年生の時、記憶に残るのは、ボール磨き。ボールにつばを吐いて、手で伸ばしながら擦り、最後に布で磨き上げる。そして、無邪気に誰のボールが一番鏡のように光っているかを競い合う。練習は、やはり天気が気になります。夏は、太陽が少しでも雲の陰に隠れてくれないかと度々空を見上げながら、ランパスで汗びっしょり、それでも休憩で頭から被る氷水は生き返る心地です。冬は、太陽が雲の合間から出てくるのが待ち遠しく感じ、それでもスクラムを何本も組んでいるうちに、背中からもうもうと湯気が立ち始めます。雨の日は、セービング。ジャージを汚したくないと思いつつも一度濡れてしまえば、乾いた土よりも痛さは感じず泥水の上を滑るようなセービングがだんだん気持ちよくなる。ランナーズハイならぬセービングハイ。
その当時のメンバーは上記の3人と私に加え、百道中の藤木和彦君、当仁中の山口伸弥君、城南中の西嶋真司君、佐世保市立福石中学出身で高2時に佐世保南高校から転校の吉村望君の8人が2年生時まで一緒にやっていました。
2年生になり、修猷館ラグビー部の公式ユニフォームに初めて袖をとおした時は、本当にうれしかった。レギュラーに定着して多くの試合に出場するようになりましたが、一方で8人いた同級生もそれぞれの事情で部を去り、3年秋の全国大会予選まで残ったのは、後藤キャプテンと西嶋君と私の3人でした。
全国大会予選は、3年間の集大成として挑んだ大会でしたが、結果は地区大会で福岡高校に負け、県大会に出場することも叶わず、あっけない幕切れとなってしまいました。悔しさを残したまま高校でのラグビー生活にピリオドをうちました。
ただ、今でも思い出す言葉があります。それは試合の直後、泣いていた私たちに「泣くぐらいやったら、なんでもっと練習せんやったとね」と淵本先生(監督)の奥様に叱咤されたことです。「3年間お疲れ様」と労いの言葉を期待していた私にとっては大変にショックでした。しかし、社会に出て、この言葉が、私自身の姿勢を幾度となく戒めてくれました。振り返って見れば、有り難い限りです。

高校を卒業し、それぞれの道に進んだラブビー部の仲間と会う機会もなく、40数年が経ちました。そろそろ定年退職を迎えようかという時に、突然、養父君からみんなで集まろうと連絡がありました。東京近郊に在住するキャプテンはじめ、山口君、藤木君、田中君、吉村君、そして52年卒の亀岡先輩や後輩達も集まり宴を催すことが出来ました。40数年ぶりの再会で風貌も変わっていますから、お互い顔をのぞき込むようにして、「後藤?おまえ後藤か?」、「養父?おまえ養父か?」と相手を確認することから始まりましたが、すぐに高校時代のラグビーの話になり次第に盛り上がります。
40年以上のブランクを越えて、心を一瞬にして高校生に戻してくれるラグビーに感謝です。そして、今になっても同じ感情を共有できる仲間がいることが幸せでもあります。
因みに、西嶋君、山口君と僕は大学でもラグビーを続け、養父君は社会人になって再開したそうです。