SHUYU
MOUNTAIN RANGE

修猷山脈
昭和52年卒
淵本 千陽

伝承者・繋ぎし絆

伝承者・繋ぎし絆

「春うらら 肩の根雪も 今とけて 負いし重荷ぞ おろせし時かな」
 半世紀近くも前の記憶で、うろ覚えであるが、恩師であり、私の父親でもある淵本武陽先生が教員定年退館のときに詠んだ句である。東京教育大学(現筑波大学)卒業後、福岡県の教員となり筑紫丘高校、教育庁勤務を経て昭和38年、念願の修猷館高等学校に赴任、その後28年間、平成3年まで永きにわたり母校修猷館で教鞭を取り続けた。またその強い愛校心故、最後まで修猷でと、管理職を辞し転勤を逃れたように聞いている。

 赴任当初は、部員5,6名、破れかけたボール3個が全財産で、廃部寸前だったそうだ。そこから何とか、全校生徒に忘れさられたラグビーを知って貰うため館長以下を説得、危険だという反対に「責任はとります」と押切りクラスマッチにラグビーを取り入れた。やっとラグビーの魅力が理解され、部員の数も増え柔道部、陸上部らからの助っ人を借りずに、対外試合が可能となった。
 その後、少しずつ力を蓄え県大会でも上位に行く事も増えていくが、古参の先輩OBからは、淵本に任せていては花園には行けないという声も多々あったやに聞いている。本人は、かつて昭和24年母校修猷館で国民体育大会の全国大会において、13番アウトサイドセンターとして出場し村野工業を破り全国制覇をなしとげており、大学では関東学生選抜として、東西対抗戦にも選出されている。それ故に尚更、生徒たちの現状と、指導の理想とのギャップがどれだけ歯がゆかったか想像に難しくない。

 それでも、私が在籍中の3年間しか修猷の指導者としての姿は知らないが、当時、コーチとして熱血指導を頂いた外尾先輩、3年次にはチーフコーチとして武藤先輩、バックスコーチとして安部先輩の慶応大学卒業したての最新スキルや戦略、戦術を落としこんで頂く事に対しても、一切口を挟む事は無く一歩引いて見守っていた。

 私が3年生になる年、守田先生(先輩)が赴任してこられた。ご子息は、まだ部員数が多くない年代で苦労された代のキャプテンであり、指導に来られたときは、逃げ出したいくらい怖い存在であったが、部活が終わると笑顔の優しい先輩もであった。
 守田先生との出会いは、私が小学6年生の時に遡る。淵本先生と当時福岡高校ラグビー部の指導者だった三野先生と共に、このままでは、ラグビー人口が激減し存続が難しいと真剣に悩み、裾野を拡げるしか手はないと、少年ラグビーの普及育成に乗り出された時であった。未だその時点では後に修猷館でご指導して頂くとは知るよしもなかったが、ラグビー以前の人としての基本を一番に求められ、出来ないとあきらめたり、手を抜いたりする事には容赦なく鉄拳が飛んできた。但、そこに深い愛がある事は小学生ながら理解できた。草ヶ江ヤングラガーズの初代卒業生となり、修猷館高校ラグビー部に入部する事が出来、翌年、半田君が続いてくれた。その後、森田君はじめ、谷井君、面々と続き川嵜君兄弟、阿久根君、山本君、直近では、下川君兄弟へと繋いでくれている。そして、甲嗣君においては日本代表にまで登り詰めてくれて、修猷館の名を全世界に轟かせてくれた。
それは、草ヶ江だけでなく、武藤先輩が立ち上げられた城南ラグビースクール、その他追随した多くのスクール、中学校ラグビー部、守田先生たちが危機感故に昭和40年台に蒔いた小さな種が、広がり、実を結び、花開いた奇跡の一つではないだろうか。

 五輪の書に、「百日の稽古を鍛とし千日の稽古を練とす。」という一節がある。
石の上にも三年。三ヶ月の反復練習では何も起きなかった変化が、三年という単位で同じ事を繰り返すと質的な変化が起きるという意味らしい。多くの人間は諦める。愚直に繰り返し信じてやり続けたものだけが得られるスキル。才能を追い越す瞬間だ。

 遡るが、文頭の退館の句で「肩の根雪」の一文は、淵本先生の28年間の苦難の年月が推し量られるが、一番苦しかったのは、清家先輩の頸椎捻挫の事故であったであろう。対外的、家庭内では微塵も見せた事はなかったが、のちに人伝えに聞いた話だと、職を辞し、家屋も売り払い責任を取りたいとの考えだった。それを諌め、導いて下さったのも、守田先生だった。

 体育での水泳の授業中、プールの浄化槽の塩素ガスが漏れた事故では、有効期限切れのガスマスクをつけ、バルブを締めに飛び込みガスを吸って白木先生と共に緊急搬送され、死の淵をさまよった。浅田先輩、里見先輩方など、とても気にかけて頂き母がとても感謝していたのを覚えている。一命はとりとめたが、肺をやられその後、生徒と一緒に走ることは叶わなくなった。

 ぼろぼろの身体で、何とか退館の日を迎えることができた平成3年3月、心から漏れた冒頭の句だったに違いない。

 昭和51年11月7日 対筑紫中央61対6、11月13日 対嘉穂高校76対0、11月14日 対福岡高校62対9、11月21日準決勝 対筑紫丘26対10、県予選決勝 対大里高校4対8  1トライがまだ4点の時代だった、花園にあと一歩、OBの先輩方、学校関係者から、多大な支援、応援を頂いたが、届かなかった。結果が出たあと思い返すと、犠牲にしたものが少なすぎた。文化祭、運動会など浮かれて軸足がずれていた。「花園に行きたい」と口先では唱えていたが、全てを縣てはいなかった。
 ただ、途中切れかかった糸を繋いで頂き、現在の100周年を迎えるまでの一年度として、「礎」の一石となれていれば、幸いであるし、そう願いたい。

 西のみ空を仰ぎみて、闘魂碑に向かいて黙想、全員で円陣を組んで「修猷ラグビー弥栄」を三唱。「ありがとうございました」と叫び。全ての事に感謝して終わる。
 先輩から引継ぎ、後輩に繋いだルーティン、現在の立派な人工芝グランドの上でも続いているのだろうか。