SHUYU
MOUNTAIN RANGE


花園への道

1976年春、新学期初日の全校集会。壇上に、後に「ジイサン」と呼ばれる守田基定先生の姿を目にした時の衝撃は今も忘れられません。全校生徒を前にした挨拶では、冒頭こそ母校に奉職できる喜びが語られていましたが、話の大半は前年の福高戦の敗戦に対する酷評。香椎高校との練習試合で鬼のような指導ぶりを目にしていた私たちは、誰もが「大変なことになる」と覚悟しました。
先生の着任から1週間足らずの4月中旬。我々2年生は集団脱走を企てます。さらに1週間後には、同期のひとりが退部を申し出る事態に。記憶は曖昧ですが、たしかに大変なことになりました。しかしこの経験が、逆に同期7名の結束を強めたようにも感じます。
波乱の幕開けだった1976年は、武藤、安部、原田のコーチ陣に加え、「今年こそは」を合言葉に多くのOBがグラウンドに姿を見せました。淵本千陽キャプテンの強烈なリーダーシップには、OBをその気にさせるだけの力がありました。結果、チームは県大会決勝進出。あと一歩で涙を飲みましたが、花園が「夢」ではないことを教えられました。

翌1977年。前年の躍進の反動もあり、新チームの船出は頼りないものでしたが、その不安を払拭するかのように、夏合宿は壮絶なものになります。なかでも闘魂碑の前で繰り広げられた「正面衝突ぶつかり稽古」は狂気そのもの。5メートルほどの距離をおいて二人の選手が向き合い、ボールが空中に投じられるのを合図に猛ダッシュ。先にボールを拾った選手が相手を抜き去り、一方がタックルという想定だったのですが、その程度の距離で差がつくはずもなく、当然のごとく結果は正面衝突の連続。くぐもった鈍い音が続き、次々と選手が倒れていきます。あまりの惨状に犠牲者が5、6人になったところで中止となりましたが、目の前で難を逃れた1年生部員の安堵の表情は忘れられません。FWの練習では日頃から背中が丸いと指摘されていたプロップの松本は、スクラムに向かって駆け寄ってくるスパイクの音を耳にします。音が消えた次の瞬間、背中の上でスパイクが踊っていたそうです。
秋。激励会での「この先はラグビーだけを考えて過ごしやい。勉強はせんでよか」という「ジイサン」の強烈な挨拶と「弥栄」の雄叫びで始まったシーズンは、連日のように裏手の壁を乗り越えてグラウンドにやって来る修猷学館1年生(淵本、濱田、松尾先輩ら)の体を張った指導の成果もあり、粕屋高校に94ー0、嘉穂高校に54ー0と順調に勝利を重ね、優勝候補筆頭の八幡高校との準々決勝へ。一進一退の攻防が続く中、敵陣深く攻め入った場面で相手バックスにボールが渡ります。ゴールに向かって疾走する相手センター。誰もが万事休すと思ったその瞬間、逆サイドから猛追してきたウイング浅田のインゴールノッコンを誘う強烈なタックルが炸裂。試合は21ー18の辛勝。花園への道を開く「奇跡のタックル」でした。

準決勝で筑紫高校を27ー9で下し2年連続の決勝進出。決勝の相手は平均体重で10キロ近く上回る福岡工業。「腰を落とせ。背中を伸ばせ。膝を曲げろ」と口酸っぱく指導してきたのが嘘のように「明日は押さんでよか。つっかえ棒のごと脚ばまっすぐ伸ばして、押されんごとしやい」との指示に反し、スパイクの痛みを忘れられないFW陣は、練習で身につけた姿勢を崩すことなく相手を押し込み続けます。テレビ解説で筑紫丘高校の門田先生が「火の玉のような結集力」と評されたチーム一丸のタックルで猛攻をしのぎ、結果は4ー3。


冬の時代を通じて淵本武陽先生が長年積み重ねて来られた実績と「ジイサン」の狂気が一つになって勝ち取った18年ぶりの全国大会出場でした。傑出した選手のいない7名でしたが、一人も離脱することなく秋を迎えられたことが、勝利の女神を微笑ませたのかもしれません。



