SHUYU
MOUNTAIN RANGE


1979:守田基定先生が部長として率いたシーズン

私たち昭和55年卒は、1年生の時に奥山清隆主将(昭和53年卒)率いるチームの一員として、第57回全国高等学校ラグビーフットボール大会に参加することができた。
ラグビー経験者は、城南中学校出身の家村伸一郎と小幡史郎の2名。
小幡史郎は修猷館ラグビー部員としての花園出場を目指し昭和52年4月に入学。花園への熱い思いを抱くに至った昭和51年全国大会福岡県決勝戦観戦の経緯を、45年経た今も当時と同じ熱量で語る。
小幡は城南中学校での3年間、福岡教育大学ラグビー部OBの三羽ガラスのひとり城戸先生(のちの筑紫高校ラグビー部監督)にラグビーを指導していただいた。

高校受験の迫る中学3年生の冬、武藤先輩と成田先輩が修猷館ラグビー部入部勧誘のため小幡自宅まで足を運んでくださった。勧誘に来られた先輩方に「自分は越境してライバル福岡高校ラグビー部に入部して、城南中学で1学年上にいた松瀬先輩、堀尾先輩の所属する修猷館ラグビー部と戦います」と回答した。勧誘に来られた先輩方は、この返答を聞いてもなお「この週末に、全国高校ラグビー大会福岡県決勝戦が、城南高校のグラウンドであるけん、それを見てからでも遅くなかろう」と決勝戦の観戦に誘ってくださった。
決勝当日、試合会場への通り道にある小幡自宅に、渕本千陽主将(昭和52年卒)率いる修猷館ラグビー部のみなさんが迎えに来てくださり、なぜかその最後尾を小幡はとぼとぼとついて行った。対戦校は門司の大里高校、非常に白熱した気合の入った名勝負であったが惜敗。昭和51年11月28日全国大会福岡県予選決勝vs大里高校(於:城南高校G)前半4対0、後半0対8、結果4対8、で全国大会出場をあと一歩のところで逃す。ノーサイドの瞬間、小幡には偉そうに福岡高校に越境入部して中学の先輩方と戦うとのたまわっていた気持ちは微塵もなく、魂を込めたプレーで最後まで諦めない激闘を眼の前で見せてくれた修猷館ラグビー部に入り、この先輩方と花園出場を目指すと決意が固まった。
修猷館ラグビー部に入部した秋、小幡は準々決勝試合中に負傷退場された半田裕先輩(昭和53年卒)に代わり、1年生ながら全国大会福岡県予選大会準々決勝、準決勝、決勝に左フランカーとして修猷館6番ジャージに袖を通し、18年ぶりの花園出場に少なからず貢献し一年前の決勝戦観戦で決意した思いを現実のものとした。

私たち昭和55年卒は、2年進級前に同期の複数名が退部し、マネージャーを含む8名に減り、昭和54年最上級生となった。
昭和54年のシーズンは、守田基定先生(以降、敬意をこめて「爺さん」と略)が修猷館高校ラグビー部・部長を務められた最初で最後の1年であった。3年生は、父上の跡を継ぎ医師になるべく猛勉強のストレスから開放されるためか、部室で喜んで脱がされ役を引き受けるスクラムハーフ案浦康髙(バックスリーダー)、ふだんから優しい兄貴分、記念講演会をサボって後輩を巻き沿いに爺さんの鉄拳を食らったサボりも主犯の兄貴プロップ家村伸一郎(副将)、敵を前にすると顔は笑っているが眼光は獲物にロックオンした野獣の如くハードタックルをぶちかまし吹っ飛ばす微笑みの熱男フランカー小幡史郎(フォワードリーダー)、未経験ながら全九州高校選抜に選ばれる秀逸なラグビーセンス、繰り出すギャグはことごとく先輩後輩にいじられ失笑と大爆笑をもたらす笑いのセンス低・偏差値ムードメーカーのセンター國武直信(主将)、野球部じゃないが年中丸坊主のためか首から上の切り傷・縫合・抜糸が絶えないフッカー河野隆、ラインアウトで「うるさい、サインが聞こえん。黙れ!!」敵から罵られても声を出し続け自己中のプレースタイルで試合を楽しむ、夏合宿に松葉杖をついてやってきた練習嫌いロック小山一英、夏合宿昼寝の時間に扇風機の最前に陣取り涼しさを独り占めして後輩たちから迷惑がられる椎間板ヘルニアに苦しんだサイコロ体型のNo.8三浦宏司、文化祭のステージ上で観客を巻き込み大熱唱するガールズバンドのリードボーカルの傍ら、はちみつ漬けレモンスライスを準備してくれスコアブック手書き記録に苦労していたマネージャー旧姓:湊千恵の8名体制で、「爺さんを部長として花園に連れて行く」と心に秘めて昭和54年シーズンに臨んだ。
2年生(昭和56年卒:河野進主将、岡本圭吾・元修猷館館長含む15名)、1年生(昭和57年卒:廣佐古勉主将、渡邊康宏・ラグビー部顧問含む12名)の頼もしい後輩たちに支えられシーズンを戦い貫くことができた。

公式戦の戦績は、新人大会中部地区予選決勝で宿敵の福岡高校に前半4対4,後半0対4、結果4対8で惜敗。九州大会予選は決勝で筑紫丘高校に前半0対10,後半10対16、結果10対26、16点差で敗退。冬の全国大会予選準決勝の対戦相手は、新人大会で負けた因縁の福岡高校。新人大会の借りを返し必ず決勝に勝ち進むという強い思いを胸に試合に臨んだ。前半6対0で折り返したが、後半0対10、結果6対10逆転され宿敵福岡高校に2度目の黒星を付けられ修猷館ラグビーを終えた。この年、筑紫丘高校は花園初出場を果たした。
かつてのライバル筑紫丘高校、福岡高校の同級生達は、今年も居酒屋に集い現役時代を懐かしみ、美味しい食事とお酒を飲んで楽しい時間を過ごす、唯一無二の大切なラグビー仲間となっている。
フッカー河野隆は爺さんが大好き。爺さんは昭和54年シーズン1年限りの部長となり、部員に具体的な課題をいくつも与え成長させてくれた。最上級生になってやっと公式戦に出だしたフッカー河野に、爺さんが課題をくださった。「河野、フッカーは誰よりも早く、スクラムポイントに行かないかんぞ。スクラムポイントまで必ずダッシュして一番に行け」大好きな爺さんの期待に応えたくて、愚直に実行し続けた。

日々のアタックディフェンスからダッシュを心がけ実践した。ラックで下敷きになっていても、モールの中心でボールに絡んでいても、ブレイクしたらスクラムポイントまで全力でダッシュ。試合で対面フッカーに一度も先を越されないよう、練習試合、公式戦では必死の決意で臨んでいた。いつしかスクラムから第一フェーズのポイントまで、各フェーズから次のフェーズへと常に全力ダッシュできるようになり、敵ボールを追いながらポイントができそうな位置を予測し走ることもできるようにもなった。これにより、モール、ラックに早く到達しボールに絡む率が急激に高まった。同時にコンタクトによる裂傷も増えた。
爺さんからもらったいくつもの個別課題のおかげで、試合が楽しくなった河野は、ラグビーをもっと上手くなり、多くの試合に出て勝ちたいという欲望が生まれ、一浪して進学した地元大学でも体育会で4年間ラグビーを楽しむことができた人生を爺さんに感謝している。