SHUYU
MOUNTAIN RANGE

修猷山脈
昭和56年卒
川村 和久

砂のグランドの思い出

砂のグランドの思い出

修猷ラグビーが全国大会に出場した昭和52年の翌年に入部した。県大会決勝での修猷ラグビーの雄姿に憧れた者も多く25名が入部したが、残った同期は河野主将以下15名(マネージャー2名を含む)。
再度の花園行きを目指し、練習は厳しく、OBの指導も熱かった。また、OB会の支援も手厚かった。足腰を鍛えるために深さ20センチはあろうかという砂がグランドに敷かれた。いくら何でんやりすぎでしょ!
また、筋力を強化するためのウェイトを上半身・手首・足首に常に装着するように指導されたが、異様な姿に部外者から気味悪がられた。この流れでは、顧問の守田先生から鍛錬のため校内では爪先立ちで小走りするように指導されたこともあったが、これは部外者にウケた(面白がられた)。

夏の練習は格別だった。当時は、練習中に水を飲んだらバテると信じられていて水分補給厳禁。日没までの練習。途中から水分不足で汗も出ず、ジャージの上には汗が乾いて塩が出来ていた。
夏合宿では、起床後すぐにランパス10本を走った。早朝、午前、午後の3部練習。一日が数日間ほどの長さに感じられた。そういえば、この年は合宿が二回もあった。校内合宿の後、有力校が集う由布院に行った。田舎者の我々は県外校の実力を知らず、九州最強の一角だった佐賀工業と先入観無く練習試合をして、勝ったこともあった。

全国大会予選は決勝に進出、ライバル福高と戦った。全校をあげて平和台競技場に応援に来てもらい、大歓声と館歌を聴いた時には感激した。しかし、結果は敗退。花園には一歩届かなかった。あれだけ練習しても、何かが足りなかったのだろう。

指導者には恵まれた。顧問の守田先生、部長の淵本先生、監督の武藤さん(現ラグビー倶楽部会長)、コーチの安部さん(前ラグビー倶楽部会長)と、原田さん。

守田先生には、気合と根性を教えていただいた。毎年、壮行会で披露される「修猷ラグビー、万歳‼」のパフォーマンスは圧巻だった。淵本先生には、理論的な指導をして頂いた。選手をよく観察してコンバートするなど色々な可能性を試してくださっていた。

安部さん、武藤さん、原田さんは、当時は青年で、良き兄貴分だった。皆さん、仕事をお持ちなのに午後4時頃にはグランドにおられた。後日、安部さんに「当時、仕事が暇だったんですか?」と聞いたら、「バカ、練習が終わってから会社に戻って、仕事しよったったい」とのことだった。大変失礼しました。武藤さんの「ラスト!」の掛け声は鬼門だった。当然全力で走るのだが、決まって「今のは良かった。忘れんごと後3本!」とおっしゃる。「武藤さんはLASTの意味を知りんしゃれんとやろね」と心の中で文句を言いながら走った。原田さんは、現役並みに走り回っておられた。文字通り身体を張って(痛めて?)、練習の相手をしていただいた。

色々あったが、多感な時期の濃すぎる3年間だった。理不尽を含め人生を教えて貰った気がする。数多の思い出と生涯の友となった同期を与えてくれた修猷ラグビーに感謝し、今後の更なる発展を祈念したい。