SHUYU
MOUNTAIN RANGE


ギネスと苦味

フッカーはスクラムからボールを出すのが一番の仕事だ。相手の反則で得たせっかくのチャンス。県でも1・2位を争うバックスに出せばどうにかしてくれる…。しかし、出せない。当たり負け、押され、ボールを蹴り出す右足は空を切り、体を支える左足は宙に浮く…。スクラムで負ける時、フッカーはきつい。前からも後ろからも押され、顔が自分の腹に近づく。押されてヤンボーになる、次のポイントでまた組む、また押される、そしてヤンボーに…。その試合、何回スクラムを組んだだろう、たぶん1本も出せずに試合は完敗した。1983年10月、全国大会県予選の準決勝、福高との試合だった。

僕らはいいチームだった。総じて体は小さくそして細かったが、みんなラグビーが好きで、ラグビーをするために登校し、早弁し、授業中は寝て、食堂で昼食を食って、午後も寝て力をため、パンを食って、いよいよ部室に向かう、そんな日々を過ごしていた。
吉村、鬼塚、伊藤、中村、武田、堀内、真鍋、光武、島塚、梁川、横田、宮田、能見、逢坂それに藤井。40年経っても卒業アルバムの写真をみると一人ひとりの顔や仕草や走り方、それにニオイまでをも思い出す。能見の地を這うような低いタックル、小兵の島塚が2m近い相手にタックルを仕掛ける後ろ姿、敵を黙らせる堀内の試合中の辛辣な一言、ミッタケが蹴ったボールがポストを外れていく青い空…(もちろん試合は勝ったけど)。女にうつつを抜かしてラグビーに身が入っていないんじゃないかと議論をしたり、アタゴに願掛けに行ったり、真鍋んちで食った濃厚な水炊きのうまさ、試合中にかけられた「イワオ、耐えろ〜!」との剛一の声、島塚とやったフッキングの練習、全てが昨日のように思い出される、福高に負けたことも。しかし、2列目、3列目、そしてバックスの歯痒さを考えると、フロントローはある意味幸せだったのか。考えると胃が痛くなる、「戦後」43年も経っているのに…。
私は、この試合を最後にラグビーをやめ、いろいろあって、現在、大学で教員をしている。ラグビーも見なくなっていたが、3年前にアイルランドでの在外研究の機会を得てラグビー見物を再開した。同国のラグビーは近年ヨーロッパではNo.1、アイリッシュからも愛されている。パブやスタジアムでジャパンのジャージーを着ていると、「日本からか?いいチームだよな」「お前はどこをプレーしていたのか」との声もよくかけられた。「フッカーだったよ」というと一挙にスクラム話になる。私は「フッカーは上半身と腕を鍛えるべきだよね」とあれ以来ずっと思ってきたことを口走る、苦い思いを飲み込むのにぴったりのほろ苦いギネスを口に注ぎながら。

