SHUYU
MOUNTAIN RANGE

修猷山脈
平成4年卒
坂本 宗之祐

岡本監督と僕らの1991年

「お前ら大変だぞ、岡本が監督になったら。あいつは激しいぞ〜」
1991年3月。定年でラグビー部監督を退任される淵本武陽先生が、去る間際にニヤリと笑い、春に3年生になる僕らに忠告を残された。
「え、激しい?大変?どういうことだ」。その言葉が引っかかり、頭から離れなかった。
その一方で、僕らと年も近い20代の修猷OBから指導していただけることにワクワクする気持ちもあった。

そして4月。いかにも体育教師な風体の筋肉質の男が、薄暗いピロティーをのしのし歩いてくる姿が見えた時、期待と不安はマックスに達した。それが岡本圭吾先生だった。
淵本先生のおっしゃった「激しい」の意味は、指導を受け始めてすぐわかった。練習のあり方が全く変わった。
最初、岡本先生から「今までの練習やってみろ」と言われ、ひたすら走り続けるランパスをしてみせた。
そのメニュー中にドリブルがあったが、「そんなの今のラグビーで使わんやろ」と即廃止。他にもあらゆる面で練習は変わった。一言で言うと合理的。でも厳しい。甘いプレーをすると容赦なく叱り飛ばされる。黒いサングラスをかけ、ベンチから練習を見つめる時の威圧感がすごかった。

そして実践形式の練習が増えた。毎日AチームとBチームがフルコンタクトで戦うアタックディフェンス。
BのFBに岡本先生が入り、鬼の形相で縦横無尽に走る姿に度肝を抜かれた。一切手加減はなく、なかなか止められない。
さらにはBのFWには司法試験浪人中のOB堀内恭彦さんが加わって暴れ回り、この2人にAチームはさんざん苦しめられた。
実にしんどかったが、「お、これは俺たち強くなるな」という手応えを日々感じるようになった。

その矢先の7月、僕自身は練習中にアゴを骨折して約1ヶ月、福大病院に入院。「これで夏合宿に参加せずに済む…」と内心ほくそ笑んだが、後で大いに悔やんだ。
たまに見舞いに来てくださる岡本先生が「あいつらどんどんうまくなりよるぜ」とおっしゃっていた通り、8月下旬に退院してグラウンドに戻ると、チームの見違えた様子に目を見張った。フォワードは力強さが増し、バックスはラインスピードが格段に上がっていた。中でも小柄なWTB調が無双しており、水を得た魚のように走り回る姿が印象的だった。

「みんな頑張ったんだな…」と副キャプテンとして嬉しさと誇らしさを感じると同時に、自分だけ置いていかれてるような寂しさと焦りもあり、複雑な気持ちになった。体重は10キロ近く落ち、走るスピードも落ちた。SO平本に真顔で「おい坂本、遅いよ」と言われて傷ついた。そこから秋の大会に向け、必死に飯を食って体を戻し、Aチームに復帰。

最後は筑紫丘高グラウンドで糸島高校に敗れ、この世が終わったように泣きじゃくった。そのまま近所だったPR中山の家に3年生全員で集まり、現役中は禁止だった炭酸ジュースをごくごく飲んだ時、「終わったんだな」としみじみ実感した。

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