SHUYU
MOUNTAIN RANGE

燃え尽きた純情!個性派集団
同期は、僕の宝である。高校時代を振り返れば、個性豊かな純情!修猷健児がそろっていた。苛烈、かつ理不尽な練習を最後まで耐え抜いた仲間は次の8人だった。
キャプテンがクールでクレバーなSO空閑毅、試合に出なくともチームを支え続けたフランカー浅田睦彦、56キロの史上最軽量FWのロック井田博之、まじめ一途のフッカー下田憲一、活力のシティーボーイ、プロップ下村光、少年ラガーそのままのSH堀尾直孝、ちょい悪の猛タックラーのFB宮島哲瑞、そして寡黙な武闘派、ナンバー8の不肖松瀬。
おっと、マネジャーのマドンナ、麗しの熊本真由美(旧姓:福成)を忘れてはならない。
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眩い記憶では、「修猷砂漠」と形容されたラグビーグラウンドはひどい砂地だった。「足腰を鍛えるため」といわれて小貝や小石が混じった大量の砂を入れられ、そこを何本も何本もランパスを繰り返した。セービングをすれば、痛いのなんのって、でん部に「ビフテキ」(擦過傷)ができた。風呂では焼けるほど沁みて痛かった。
昭和の時代、最近のテレビドラマ「不適切にもほどがある」の世界だった。負けた練習試合の後だったか、武藤英治監督から「順番に殴り合え」と命じられた。スクラム練習では、「バンザイ三唱」の情熱家、守田基定先生(故人)がプロップの背に飛び乗った。
とくに忘れられないのが地獄の夏合宿である。夏休み序盤、学校の敷地にある菁莪(せいが)堂に寝泊まりし、50メートルほど離れたグラウンドで炎天下、延々と走り続けた。僕は血がまじったしょんべんが出た。練習中は"水補給厳禁"の時代。まじめな井田は3年時の夏合宿で水をひと口も飲まずに熱中症で倒れ、かかりつけの溝口病院に入院した。
時効だから書くが、僕は夜、ひとり学校の塀を乗り越えて、西新商店街の酒屋の角打ちでビールを飲んでいた。
戦績は、修猷の復興期だった。1年時は全国高校大会福岡県予選の決勝で大里に惜敗し、2年時は準々決勝で八幡に快勝した。宮島の玉砕タックルがまぶたに残る。決勝は幸運にも僕のトライで福岡工に競り勝ち、18年ぶりに全国大会(花園)に出場した。地元の西日本新聞には「古豪復活」の見出しが躍った。
3年時、OBの期待は高まる一方だった。夏合宿には、部員の倍ほどのOBがスパイク持ってはせ参じた。練習開始時、必ずグラウンド隅の『闘魂碑』に克己を誓った。
同期はラグビーの素質に比較的、恵まれていたと思う。でも最後までポジションが固まらず、準決勝で韋駄天ウイングを擁する筑紫に完敗した。個が強すぎて、チームとしてうまく融合できなかった気がする。
グラウンド脇のOBの悲痛な叫びが耳に残る。「きさぁ、タックルせんか!」
僕らは燃え尽きた。でも敗戦後、円陣で、ラグビー部顧問のシビアな淵本武陽先生(故人)に叱られた。それが悔しくて、悔しくて。みんな、涙をぽたぽたと落とした。
これも時効だろう。その数日後、宮島の桜坂町の2階の下宿で打ち上げをやった。当時流行っていた矢沢永吉の『ウイスキー・コーク』を口ずさみながら、コークハイをしこたま飲んだ。「俺たちの出逢いを見つめていたのは 甘く苦いウイスキー・コーク♪」。みんな、へべれけに酔っぱらった。
高校卒業時、淵本先生は僕ら全員に焦げ茶の小さなマスコットボールをプレゼントしてくれた。あれから半世紀。僕の机の右上にはそれが置いてある。「祝・卒業 S54・3・8」の下に黒マジックでこう、書かれている。
「着実に前進せよ! フチモト」













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