FORMER JAPAN
REP SPEAKS

日本代表経験者は語る
昭和30年卒
結城 昭康

1959年 日本代表

修猷魂の権化・狂気と慈愛の熱血漢

 目である。記憶では、結城さんの目には時に狂気の光を帯び、時には深い慈愛が満ちるのだった。修猷館歌を口ずさめば、僕らは、目が無くなるくらいに細めた先輩の人懐っこい笑顔を思い浮かべるのだ。特に2番の歌詞の時。
<常盤の松の百道原 集える健児一千人 青春の血は玄海の 荒き怒涛と沸き立ちて~♪>

・日本代表プロップ「スクラムは足の裏で組むもんだ」
 日本代表のキャップが「1」つ。右プロップとして、早稲田大学を卒業した1959(昭和34)年の9月、日本代表対オックスフォード大・ケンブリッジ大連合(花園ラグビー場・●6-54)に出場した。大敗もスクラムだけは踏ん張った。当時23歳の結城さんがいたからだろう。
 それから20年ほど経った後、結城さんが筆者(1979年卒・松瀬学)の修猷館時代(1976~78年度)、砂地のグラウンドに時々、来てくれた。ある日のスクラム練習の時のことだ。OBは3人、しかも右プロップに入った結城さんは水色のビニールサンダルを履いていた。なのに、現役8人のフォワードが必死マメタンに押してもびくともしなかった。結城さんの足首はひどく柔らかく、足の裏がぜんぶ地面に付いていた。後日、笑って、スクラムの極意を教えてくれた。「スクラムは足の裏で組むもんだ」
 
・「ワセダでは目で勝負しろ!」
 結城さんの勧めもあって、筆者は早大に進学した。たしか早大では素質がなくとも、人一倍がんばれば、レギュラーになれるという理由だった。修猷卒業時、ラグビー部の壮行会のあと、中洲でお酒をご馳走になった。先輩は別れ際、こう言われた。「ワセダでは目で勝負しろ!」と。
 その後、この言葉の意図がわかる。一生懸命に練習していないと、監督、コーチの目を真正面から見ることはできない。自信がないと、同じポジションの早大のライバル、試合の相手選手をにらみつけることもシンドクなるのだった。

・怒りのタッチジャッジの猛タックル
 結城さんの個性はひと際突出していた。「瞬間湯沸かし器」の異名もとった。早大では有名な逸話がある。先輩が早大ラグビー部のコーチ時代、東伏見グラウンドの練習試合でタッチジャッジを務めていたときの話だ。早大選手がタックルを外されまくったのに激怒、タッチフラッグを放り投げ、目の前を駆け抜けていく相手選手の足首にライン際から猛タックルを浴びせてしまった。相手チームだけでなく、早大側も度肝を抜かれた。前代未聞、タッチジャッジが一発退場と相成ったのだった。

・野球部を1週間で飛び出し、ラグビー部へ転向。3年時には全国大会出場
 1936(昭和11)年5月、結城さんは福岡にて生まれた。あの急進的な陸軍青年将校による「2・26事件」が起き、日本が戦争に突き進んでいたころだ。このトシの2月、巨人の長嶋茂雄氏も生まれた。
 第二次世界大戦は終わった。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が廃止された1952(昭和27)年、結城さんは修猷館高校に入学。最初は野球部に入ったけれど、わずか1週間後、上級生をぶん殴って退部した。ウワサを聞いた3年生部員に誘われ、ラグビー部に入部した。
 強健な身体と負けん気の強さ、ほとばしる熱情がラグビーに合ったのだろう。同期のバックスの平島正登とともに1年生からレギュラーとなり、1年時、2年時の1953(昭和28)年とも、全国大会福岡県予選の決勝で福岡高校に屈した。2年時のときは福岡高校が全国制覇をしていたため、3年時の1954(昭和29)年度の全国大会福岡代表枠は2校となり、福岡高校とともに全国大会へ。修猷館はその1回戦で秋田工高に6-8で惜敗した(秋田工は準優勝、慶応高が優勝)
 
・4年間、早慶戦にて同窓の平島と対戦。早大4年時には全国制覇
 修猷同期の平島さんは慶応大学に進み、結城さんは早大に進学した。ふたりとも1年生からレギュラーとなり、以後4年間、早慶戦(11月23日・秩父宮ラグビー場)で相まみえることになった。4年間とも結城さんが右プロップ、平島さんはSOで、対戦成績が1955(昭和30)年は●早大5―11〇慶大、1956(昭和31)年〇早大26―8●慶大、1957(昭和32)年〇早大20-9●慶大、1958(昭和33)年〇早大16―11●慶大だった。結城さんは頑強なスクラム、破壊力満点のプレーで活躍した。
 結城さんは4年時の1958年度、大野信次監督、冨永栄喜主将のもと、関東大学対抗戦を全勝で進撃し、関西の同大、関学大も連破、5年ぶり11度目の全国制覇を果たした。直後の朝日招待ラグビー(1959年1月15日・平和代)では、20―11で九州代表に快勝した。
 結城さんと同期の主務、浅海敏之さんは「結城はスクラムが滅法強かった」と思い出す。
 「性格は豪放磊落、かつ頭にすぐ血がのぼってカっとなる。試合中でも、博多弁の大声で、“ひどかー”とか、“しぇからしか”“タックルせんかい”とか。でも、怒りはすぐに落ち着く。根に持つことはない。正義感がつよかった」
 浅海さんの記憶では、長野・菅平高原での青学大との合同合宿が忘れられないという。午前中はスクラム練習が延々とつづく。プロップ陣の首や肩の皮はめくれ、赤い血が染みたタオルを首にぐるぐる巻いてはひたすら組み続けた。それでも結城さんは一切弱音を吐かず、鬼の形相で薄く笑っていたという。

・早大監督として大学選手権優勝
 結城さんは早大卒業後、OBが経営する東京の広告代理店に就職した。1965(昭和40)年度、早大の横井久監督の要請でFWコーチを務め、1966(昭和41)年度、早大の第15代監督として全国大学選手権優勝にチームを導いた。早大の第3期黄金時代の礎をつくった。
その後、広告代理店を辞め、故郷・福岡に戻った。独学で一級建築士の免許をとり、東京の早大同期の連中を驚かせた。自身で「結城住建」という不動産屋を立ち上げた。

・不慮の交通事故にてノーサイド
実は結城ご夫妻には筆者の結婚式の仲人をしていただいた。式前から一緒に酒を飲み、1時間遅れで始まった結婚式はハチャメチャになった。昭和ならではの、愉快な、愉快な、よか晩だった。

バブル崩壊が始まった1991(平成3)年5月、豪快な九州男児は激しい雨の日、オートバイ運転中に不慮の交通事故で死去した。あと1週間で55歳となるところだった。

文:松瀬学(S54年卒)